私には憧れの先輩がいました。
それは高校1年の5月頃の話です。まだ校内に不慣れだった私は、実習室からの帰り道がわからなくなって、廊下でウロウロしていました。
そのとき、「どうしたの?」と声をかけてくれたのが、3年のM先輩だったのです。
3年は本来、新1年生からすると恐怖の対象でしかありません。しかし、先輩はまた違っていて、どちらかと言うと先生に近い、妙な安心感がある大人に見えました。
私はあまり異性慣れしていません。ほとんど接することがない3年ということもあって、会話もおぼつかなくて、さらに慌てていました。
そんな私に先輩は、「道に迷ったの? 何組?」と聞いてくれ、1年の教室まで連れていってくれたのです。
大したことではないのかもしれませんが、当時はまだ男性に紳士的な応対をしてもらうことに免疫がありませんでした。たったそれだけのことで、私の中の先輩が急激に膨らんでいくのがわかりました。
単純な私の恋心は日増しに育っていきます。そして友達に聞いて先輩の情報を集めました。
調査の結果、趣味や最寄りの駅、彼女がいないこと、サッカー部に所属していること、サッカー部の部員が増えていること、新たにマネージャーを募集していることがわかりました。
正直サッカーのことは詳しくなかったったのですが、このチャンスをモノにしないわけはいきません。すぐにサッカー部の顧問の元に行き、マネージャーになりたいと伝えることにしました。
特別、面談や審査などはなく、週にどれくらい出ることができて、何時までいることができるのか、家はどの辺りで帰るまでにどれくらい時間が掛かるのか、などをサラッと聞かれただけでした。
そして早速、翌日からサッカー部に参加することになったのです。サッカー部にはすでに2人のマネージャーがいました。
1人は私と同じ1年でミナという子です。私よりすこし前にマネージャーになったようでした。もう1人は2年で、去年からマネージャーをやっていたサチ先輩でした。
どちらも気が強そうで、部員に叱りつけるような性格なので、私とは合いそうもありません。
しかし、そんなことは問題ではないのです。別にお友達作りにきたわけではないからです。そもそも私のような見た目どおりの引っ込み思案な人間が、人の世話を焼くマネージャー業に向いているわけがありません。
部員数が多いせいか仕事量も多くて、洗い物や掃除、タオルやドリンクの管理をしたりと大変でした。手際が悪いこともあって、他の人よりも時間が掛かってしまいます。
当初思ってた以上に先輩と接する時間がありませんでした。それどころか部活の開始と終了のタイミングでしか、先輩を見ることができない日もあったのです。
だんだんと気分が落ち込んでいき、1か月が過ぎた辺りです。部活が終わり、片付けの洗い物をしていたときにミナが言いました。
「ごめん、今日用事あってさ、悪いんだけどコレお願いできないかな?」
洗濯は私が入ってからは私たち2人で対応することになっています。ミナとは性格が合わないこともあって、それほど仲良くありません。
しかし、他に手伝ってくれる人もいませんし、用事があるなら仕方ないかなと引き受けることにしました。
そうしてミナは「今度、必ず埋め合わせするから」と言い残して、帰っていきました。
いつもよりも作業ボリュームが増えたことにため息が出ます。今日は見たいテレビがあったのになあ、と考えながら作業を進めることにしました。これでは先輩と話をするなんて夢のまた夢です。
しばらくすると、サチ先輩の尖った声が聞こえました。私は反射的に怒られる! と思い、背筋がゾッとしてしまいます。受け答えも怯えた感じになっていたでしょう。
「いつまでやってんの?」
とサチ先輩が顔を覗かせてすぐ、そう言いました。
「あの子校門から出て行ったけど、どこいったの?」
あの子というのはミナのことでしょう。
「なんか用事があるらしくて、先に帰ったみたいです」
「用事?」
荒げた語調のまま、サチ先輩は小さく鼻で笑いました。
「M先輩と腕組んで帰っておいて、用事とはねえ」
サチ先輩のその言葉に、私はドキドキしてきました。
耳が遠くなり、頭の中が真っ白になります。作業の手が止まり、一点を見つめたまま呆然としてしまいました。
「あんた、M先輩が好きだったんじゃないの?」
サチ先輩がそう言いながら、作業をしている私の横へ歩いてきました。
「どうして……」
顔をあげてサチ先輩の顔をみると、軽く笑いながら先輩はこう続けます。
「あんたみたいな子が、マネージャー希望するのって大抵憧れの人目当てなのよね。それにM先輩を見つめてるあんたの目、見てたらねぇ」
私は急に恥ずかしくなり、火照った顔を隠そうと再びうつむいてしまいます。
「ま、私もそうだったんだけどさ」
サチ先輩は作業を手伝いながらそう言いました。
「サチ先輩も、M先輩のことを?」
「そ。ダメだったけどね」
「そう……ですか」
「さ、早く片付けてさっさと帰ろう」
サチ先輩は作業のペースを早めて、そう言いました。先輩は手際よく作業を進めていきます。私とは段違いのスピードです。
「タオルなんて、ほとんど汚れてないんだから、サクサクやっちゃいなさい」
確かに、見ればどれもあまり使われた形跡がないものばかりです。サチ先輩の言うとおり、ちょっと汗を拭いたぐらいなんでしょう。
私はそれを見て、さすが先輩だなあと現実逃避していました。